「もっと」にならない努力論

努力という言葉は、扱いが本当に難しいと思っている。

時と場合によって嫌悪の対象となるが、人間らしい営みの一つだとも思っている。

と、「お金のこと」といっておきながら、いきなり努力の話で拍子抜けしたと思うが…
ま、しばらくお付き合い願いたい。

さて、

野山を走る動物は、生きるために餌を探す。

鳥は巣を作り、熊は冬に備えて脂肪を蓄える。

だけど彼らは、来年の狩りの成功率を上げるために道具を改良したり、数十年先を見据えて知識を体系化したりはしない。

フィジカルは影響するから強い個体は繁殖力を高めたりできるけど、

魚を捕るために「釣り」なんて方法を考えて、それを洗練させていく動物は見たことが無い。

ところが、人間は少し変わった生き物だ。

狩猟の時代であっても、より良い槍を作ろうとした。

石器を研ぎ、失敗を記憶し、技術を子供たちへ伝えた。

農耕が始まればなおさらである。

種を蒔いたその日に収穫できるわけではない。

草を取り、水を引き、収穫の数か月前から働き続ける。

今日の成果のためではなく、未来の可能性のために労力を使う。

私は、この行為こそ努力の原型だったのではないかと思う。

「未来のために今を投じること。」

それは人間という生き物が持つ、とても特徴的な能力であり、美しいものだと思う。

努力とは成長の原動力?

だから私は、冒頭で努力に対して否定的な言葉を使ったりもするが、努力そのものを否定するつもりはない。

努力は必要だと思う。

仕事もそうだ。

勉強もそうだ。

投資もそうだ。

身体を整えることも、家族との関係を育てることも、すべて広い意味では努力である。

問題は努力ではない。

いつからか、その向きが変わってしまったように見えるからだ。

また、その根っこの部分に「資本主義」という環境が影響していることは否めない気がする。

国家は経済成長を求める。

企業は増収増益を求める。

現代社会は成長を求める。

個人は収入の増加を求める。

資産運用の世界でも、昨日より今日、今日より明日へと資産を増やすことが良いこととして語られる。

もちろん、それ自体は良いでも悪いものでもない。

単純に、そういう仕組みになっているだけの話。

私自身も投資をしているし、老後資金の準備もしている。

資本主義の恩恵を受けながら生きている一人だ。

ただ、時々思うのである。

私たちは本当に、そこまで多くのものを必要としているのだろうかと。

「もっと」

食事がある。

雨風をしのげる家がある。

健康があり、語り合える相手がいる。

極端な話をすれば、人間が生活するために必要なものは昔からそれほど変わっていないのかもしれない。

縄文時代や弥生時代の人々も、きっと同じように食べ、眠り、笑い、時には悩みながら暮らしていたのだろう。

まぁ、私は縄文人ではないから実際のところは分からないが、そこには確かに暮らしがあって人の数だけの日常があった。

つまり、それで暮らせていたのだ。

ところが現代の私たちは、生活に必要なものを超えたところで、さらに何かを求め続ける。

もっと安全に。

もっと便利に。

もっと豊かに。

もっと評価されるように。

その「もっと」が文明を発展させてきたことも事実。

しかし同時に、その「もっと」に追われるようになったのもまた事実ではないだろうか。

より便利に、より豊かに、より評価されるために…

その先にあるはずの充足を求めているのに、肝心の喜びや幸せから遠ざかってはいませんか?と。

極論人生なんてゲームみたいなものだけど、本来「充分」を求めるはずのゲームだったのが、「もっと」を探すゲームになっていやしませんか?と。

目的化する努力

本来、努力は「生きるため」のものだった。

ところが現代では、努力が目的になってしまうことがある。

お金を得るために働く。

そのお金で生活を豊かにする。

そのためにまた働く。

気が付けば働くために生きているような感覚になる。

資産形成も似ている。

将来の安心のために始めたはずなのに、安心ではなく資産額そのものを追い始める。

目標だった数字を達成しても、さらにその先を目指したくなる。

努力が悪いわけではない。

お金が悪いわけでもない。

ただ、手段と目的が入れ替わっている様子をよく見る。

私が違和感を覚えるのはその部分である。

資本主義の上で考える

私は資本主義を否定しない。

この仕組みが多くの豊かさを生み出してきたことも知っている。

だから縄文時代へ戻ろうとも思わない。

今更、木をこすりつけて火を起こすことはできないし、コンビニへは車で行きたい。

ただ、この大きな流れの中にいるからこそ、一度立ち止まって考えてみたいのである。

私は、

何を求めているのだろう?

何のために働くのだろう?

何のためにお金を貯めるのだろう?

何のために努力しているのだろう?

この問いを失ったとき、人は未来を追いかけているつもりで、未来に追われるようになるのかもしれない。

努力とは本来、生きるための知恵だった。

「未来の可能性のために、今を投じる」という美しい行為

だとすれば、努力の量を競い充足を超えた「もっと」を追い求めることは減り、自分がどこへ向かおうとしているのかを見失わないことに興味が増すのではないだろうか?