休日の昼間。
お茶を飲もうと思い、まずは湯飲みを温めるためにお湯を注ぐ。
その横では急須の中で茶葉がゆっくり蒸されている。
湯飲みから立ち上る湯気。
窓から差し込む光。
空気中に漂う小さなホコリ。
風に揺れるレースのカーテン。
カサカサと音を立てる観葉植物の葉
特に何が起きているわけでもない。
ただ、それだけの風景。
でも、なぜか気持ちがいい。
お湯の音
そんな中に身を置くと、必ず一緒に思い出すことがある。
それは、お湯の音だ。
「は?なにそれ?」と言わず、少し聞いてやってください。
昔、ある映画の中で
「お湯と水では注ぐ時の音が違う」
という話をしていた。
最初は半信半疑だった。
だって、どちらも同じ液体だ。どちらも水だ。どちらもH2Oだ。
「そんなわけあるかい」と思ったが…
気になったので、家で試してみた。
水を注ぐ。
お湯を注ぐ。
すると、本当に音が違った!
水は少し硬い。
「キリキリ」と金属音のような高い音がする。
一方、お湯は不思議と柔らかい。
「コポコポ」という丸みを帯びた音。
同じ液体のはずなのに、ずいぶん印象が違う。
正直、驚いた。
一度気付くと戻れない
面白いのは、その後だ。
一度その違いに気付いてしまうと、もう元には戻れない。
コーヒーを淹れるためにお湯をポットへ移す時。
浄水器の水をコップへ注ぐ時。
その度に音の違いが耳に飛び込んでくる。
別に意識しようとしているわけではない。
勝手に聞こえてしまうのだ。
似たような話がある。
ケンタッキーフライドチキン。
我が家も、年に一回ぐらいはお世話になる。
とてもおいしい。
あのカーネルサンダースさんのトレードマークの首元のリボン。
よく見ると、あれが棒人間の手足のように見えるという話を聞いた。
そして見てみる。
段々「そう」見えてくる(笑)
ところが一度見えてしまうと、もう駄目だ。
次からはもう手足にしか見えない。
本当に困ったものである。
あまりに「そう」なので、家族に見せた。
もう、全員「そう」にしか見えない。
家族そろって「ダメだぁ~!!」と言いながらゲラゲラ笑った思い出がある。
学ぶということ
考えてみると、学ぶというプロセスでこれはとても重要なことだと思う。
家庭菜園を始めるまで、私はキュウリの実がどのように育つのか知らなかった。
普通、花が咲いて。
受粉して。
実になる。
そんな順番だと思っていた。
ところが実際には違った。
キュウリは、小さな実を付けた状態で花が咲く。
初めて見た時は
「え?なにこれ?順番逆じゃない!?」と思った。
さらに実が付く花もあれば、まったく付かない花もある。
不思議だった。
でも、自分で育てて観察しているうちに区別がつくようになった。
今では実がなる花とそうでない花は一目で分かる。
だから誘引の判断もできるし、収穫のタイミングも予想できる。
理解と気付き
不思議なのは、情報だけではこうならないことだ。
本を読んだ。
講演を聞いた。
YouTubeを見た。
感動した。
なるほどと思った。
確かに、そう思った。
でも翌日には忘れていることが多い。
というか…ほぼ完全に忘れている。
一方で、お湯の音やキュウリの花のような体験は忘れない。
どうしてだろう?
たぶん、理解と気付きは少し違う。
情報は入り口だ。
そこで得る理解も、まだ入り口だ。
でも、その先で自分の目で見たり、実際にやってみたり、「体験した時」に初めて気付きになる。
そして気付きになると、見える世界が変わる。
世界そのものは何も変わっていない。
変わるのは自分の方だ。
世界が少し広がる瞬間
私は「面白そう」と思うと、わりと何でもすぐやってみる。
やってみる。
観察する。
気付く。
見え方が変わる。
すると世界が少し広がる。
すると、また面白そうなものが見つかる。
だからまたやってみる。
そんなことを繰り返している。
湯飲みから立ち上る湯気を眺めながら思う。
もしかすると学ぶというのは、知識を増やすことではないのかもしれない。
今まで見えていなかったものが見えるようになること。
そして、一度見えてしまったら、もう元には戻れないこと。
そんな小さな変化の積み重ねなのかもしれない…
