場当たりと重要度とユーモアの比率

我が家には輪ゴムの定位置がある。

使い終わった輪ゴムを入れておく引き出しの一角だ。

ポテトチップスの袋を閉じたり、お菓子の袋をまとめたり。

一仕事終えた輪ゴムたちは、だいたいそこへ戻される。

だから普段は困らない。

必要な時に引き出しを開ければ、いつも数本ぐらいは入っている。

ところが、ごくたまにだが空っぽの時がある。

そんな時は少し奥にしまってある新品の輪ゴム箱から取り出す。

そして一つ使う。

…ここで不思議なのだが、なぜかそのついでに補充はしない。

一本取り出したなら、ついでに数本定位置へ入れておけば良さそうなものだ。

どうせまた使う。

次に誰かが「あれ?輪ゴムないな」となることも分かっている。

それなのに補充しない。

様子が違うトイレットペーパーの場合

考えてみると、これは少し変な話である。

例えばトイレットペーパーならどうだろう?

ホルダーの紙が無くなった。

予備のロールを持ってくる。

新しいロールをセットする。

そして、必要な分をそこから取り出す。

多くの人はそうするはずだ。

少なくとも、予備から必要な分だけちぎって、空のホルダーを残して去る人は少ないだろう。

つまり私たちは、

補充するものと補充しないものを無意識に区別しているらしい。

たぶん違いは重要度なのだと思う。

トイレットペーパーが無いと困る。

結構困る。

緊急事態で慌てて個室に飛び込んで、急いでことを済ませてしまった後に、紙がない惨事を想像してほしい。

在ってはならない状況だ。

しかし、輪ゴムが無くても、

少し困るだけである。

その違いが行動を変えているのかもしれない。

平和なチキンレース

そういえば、もう一つ似たようなことがある。

食器用洗剤だ。

我が家では市販のポンプ容器へ大容量の洗剤を継ぎ足して使っている。

当然、中身はだんだん減っていく。

そして、ある日出なくなる。

本来なら、

「ああ、補充しよう」

で終わる話だ。

しかし、…なぜか、そうはならない。

まず容器を少し傾けてみる。

ポンプを押す。

出ない。

反対に傾けてみる。

ポンプを押す。

少し出る。

「うん、まだいける」となる。

そして翌日。

また傾ける。

また押す。

また少し出る。

客観的に見れば、その努力で補充した方が早そうなものである。

それでも頑なに補充しない。

我が家では、これが半ばお約束になっている。

私も粘る。

妻も粘る。

最後はポンプを連打して負圧で引っ張り上げたりする。

でも、結局どちらかが限界を迎え、

「あぁ~、負けたぁ!」

と言いながら補充する。

別に補充が嫌いなわけではない。

やろうと思えば30秒で終わる。

誰かを責めることもない。

ただ、なぜか最後の一滴まで粘るのである。

その時になるまで動かない?動けない?

考えてみると、人は未来の問題より、今の問題に反応する生き物なのかもしれない。

輪ゴムが無い。

一本取る。

終わり。

洗剤が出ない。

少し傾ける。

終わり。

次に困る未来は見えている。

それでも、その時はその時で何とかしようと思っている。

案外そんなものだ。

そして、その様子を子供たちは見ている。

もっとも、子供たちはまず補充しない。

別にそれで構わないと思っている。

私もそうだった。

無くなった。

必要になった。

だから補充する。

人は案外、必要が生まれて初めて気付く。

だから、「補充しなさい」とはあまり思わない。

ただ、「ああ、こういう時には補充するんだな」と気付けるようにはなってほしい。

そんな風には思う。

無駄なやり取りという面白さ

合理性だけで考えれば、輪ゴムも洗剤も早めに補充した方が良いのだろう。

でも、最後の一本まで粘ったり、最後の一滴まで使い切ろうとしたり。

そんな少し無駄なやり取りの中に、暮らしの面白さがある気もする。

勿論、それがストレスになるご家庭においては、それなりの対応が望ましい。

でも、我が家においては、そんな無言のやり取りの中に楽しさが隠れている。

ユーモアの空気があると、心地よい。

さて、今日も洗剤のポンプを押してみる。

アレ…

出ない。

少し傾ける。

少し出る。

シュポシュポシュポ…

シュポポポポポ…

よし、まだいける。

負けられない戦いがここにある。