明らかな無駄なのに、残り続ける不思議な存在
「包装紙」というものが妙に気になった。
何故気になったのかが気になるが…そこはひとまず置いておこう。
だって、「合理性」だけで考えると、包装紙というのは随分と不思議な存在である。
例えば魚をスーパーで買う場合。
流石に魚を尻尾だけ掴んで持ち帰る人はいない。(それじゃ、サザエさんのタマだ)
ビニール袋やパックに入れられているのは、匂いやヌメリが手や服につかないようにするためだ。
これは分かりやすい。
合理性がある。
ところが、お使い物のお煎餅になると話が変わる。
合理性だけなら透明な袋に入れてラベルを貼れば十分なはずだ。
湿気を防げればいい。
中身が分かればいい。
運べればいい。
実際にはそうなっていない。
一枚一枚個包装され、乾燥剤が入り、綺麗な箱に収められ、包装紙で包まれ、熨斗が付き、さらに専用の紙袋にまで入れられる。
お煎餅に辿り着くまでに何段階あるんだろう?
合理性だけで見れば、かなり無駄である。
しかも受け取った側も、律儀にその無駄に付き合う。
熨斗を外し、包装紙を丁寧にたたみ、箱を開ける。
情緒を抜いて眺めると、無駄の山だ。
SDGsやらなんやら騒がしい時代においてである。
でも、なぜかそれがいい。
合理性が正義とはかぎらない
考えてみれば合理的なものは説明が簡単だ。
数字で説明できる。
言葉で説明できる。
共通認識として理解しやすい。
だから楽である。
だが、人間が本当に価値を感じるものは案外そうではない。
例えば旅先の駅弁。
合理性だけならコンビニのおにぎりの方が優秀かもしれない。
でも人は駅弁に惹かれる。
マクドナルドのハンバーガーは非常に優秀だ。
速いし安いし安定している。
ところが、マックのバーガーは、旅行先の駅弁箱ほど写真を撮られたりはしない。
そこにあるのは合理性の差ではなく、余白の差なのかもしれない。
包装紙とは余白のかたち?
包装紙とは何だろう。
中身を守るための紙だろうか。
もちろんその役割もある。
でも、それだけならもっと簡単な方法はいくらでもある。
むしろ包装紙は、
「相手のことを考えた時間」
「喜んでくれるだろうかという想像」
「開けるまでの期待」
を包んでいるのではないだろうか?
贈り物そのものではなく、その周囲にある見えないものを形にした存在。
言うなれば、包装紙とは余白の「物理的表現」である。
余白の為の合理化
面白いことに、人間は基本的に合理性を追求する。
時短。
効率化。
タイパ。
人生は短い。
時間は有限だ。
みんな一生懸命に無駄を削る。
ところが、その先で何をしたいのかというと、
家に帰ってソファーで横になりながら晩酌したりする。
せっせと汗水たらして働いて分刻みのスケジュールをこなして得た給料で、
何の合理性もないおもちゃを子供に買い与えて喜んだりする。
結局、「余白のために合理化している」のである。
無駄を得るために全力で効率化している。
「健康の為なら死ねる」レベルの矛盾だ。
よく考えると随分と不思議だ。
合理派vs 余白派
そして、この視点で人を見ると少し面白い。
数字や効率に厳しい人がいる。
合理主義の塊のような人もいる。
一方で、のんびりしていて余白を大事にしているような人もいる。
こういう人たちは時々衝突する。
だが、実際には違うのかもしれない。
合理性を重視する人も、家では趣味を楽しみ、家族との時間を大切にしている。
余白を大切にする人も、その余白を守るために見えないところで合理的な判断をしている。
結局のところ、
人は合理派と余白派に分かれているわけではなく、
合理性と余白の配合比率が少し違うだけなのかもしれない。
両面のグラデーションの「どのあたりに居るか」の話なのかもしれない。
包装紙が教えてくれたこと
もしそうだとしたら、
「あの人は合理的すぎる」でもなく、
「あの人はのんびりしすぎだ」でもなく、
「この人は何を守ろうとしているのだろう」と想像できる。
そんな想像力が、少しだけ人を寛容にしてくれる気がする。
包装紙一枚から、そんなことを考えた。
合理性だけなら無駄な紙。
でも人間って、その無駄に案外たくさんの価値を包み込んで生きているらしい。
その証拠に犬猫には、残念ながらこの辺りは伝わらない。
だから、これって「人間らしさだよな」と思いながら、包装紙を折りたたんでた。
