私は賞味期限というものをあまり気にしない。
いや、正確に言うと「見ては」いる。
見てはいるのだが、それを絶対視していない。
例えば冷蔵庫の奥から賞味期限を一週間ほど過ぎたキムチが出てきたとする。
そこで私は、まず匂いをかぐ。
少し味も見てみる。
「うん、だいぶ乳酸発酵が進んで酸っぱくなってるな」
と思いながら、普通に食べたりする。
もちろん何でも食べるわけではない。
腐敗した匂いがするなら食べない。
妙な苦みがあるなら食べない。
保存状態も確認する。
要するに、
「本当に大丈夫か?」
を自分で見ているだけの話だ。
そもそも論
そもそもキムチというのは発酵食品である。
店頭に並んだから成熟が止まるわけではない。
冷蔵庫の中でも少しずつ熟成は進む。
だから賞味期限が切れた瞬間に突然それが「毒」になるわけではない。
もしそうなら、その一夜で起きた変化の方が怖い。
ところが世の中には、賞味期限を過ぎた途端に
「もう食べられない」どころか「危険物」くらいの勢いで扱う人がいる。
もちろん慎重なのは悪いことではない。
しかし私は時々不思議に思う。
その人は本当にキムチを見ているのだろうか。
それとも賞味期限という数字を見ているのだろうか。
賞味期限というラベルの功罪
考えてみると、賞味期限というのは便利な仕組みだ。
判断しなくていい。
考えなくていい。
責任も負わなくていい。
期限が切れていたら捨てればいい。
とても楽である。
だが、その楽さと引き換えに失うものもある。
本当はまだ食べられるもの。
本当はまだ使えるもの。
本当はまだ挑戦できるもの。
そういうものまで一緒に手放しているかもしれない。
数字に縛られるということ
面白いのは、こういう態度が食品だけに限らないことだ。
例えば年齢。
人はよく言う。
「もう40歳だから」
「もう50歳だから」
「今さら始めても」と。
だが、私は不思議で仕方がない。
40歳の人は30歳を見て「若くていいね」と言う。
50歳の人は40歳を見て「まだ若いよ」と言う。
60歳の人は50歳を見て同じことを言う。
…
なのに自分だけは、「もう遅い」と判断している。
それって、結局キムチの賞味期限の判断と同じじゃなかろうか?
賞味期限ラベルを見て、その状態判断をせず「過ぎてるから捨てる」という思考パターンと同じだと感じる。
もちろん年齢を無視しろという話ではない。
ラベルはラベルとして認識する。
体力の問題もある。
環境の問題もある。
だから無理をする必要はない。
なにも腐ったキムチを無理して食べて、「腹を壊してみろ」と言ってるわけじゃない。
でも、「〇〇歳だから無理」ではなく、「今の自分はどうだろう?」と一度確認してみてもいい気がする。
自分がしたいことがあれば、調べてみる、軽く体験してみる、面白そうなら重心を移してみる。
そうした人生の方が充実する気がする。
ま、ちょっと味見してみませんか?
結局のところ、
賞味期限を見た時の態度と、人生を見た時の態度は案外似ているのかもしれない。
ラベルを見るのか。
中身を見るのか。
その違いである。
賞味期限にしろ、自身の年齢にせよ、それって判断を「外注」してませんか?と思うのだ。
本当の判断軸は、それぞれが持っていて、そのために私達は「感覚」という能力を持っている。
冷蔵庫の奥のキムチを見ながら、「まだ食べられそうじゃん」と思った。
もしかすると、自分自身についても同じことが言えるのかもしれない。
まあ、これが万人にとって良いことかどうかは知らない。
だって、「外注したくなる理由」があるのだから、それは尊重したい。
でも、一度ぐらい味見をしてから決めてもいい気がするんだよなぁ~。
